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幻の「こころの教科書」原稿の1部

―――はじめに、なぜ「新こころの教科書」を書こうと思われたのでしょうか?

 

 「こころ」ってすごく大切なことなのに、どこかできちんと学んだ記憶はない。自分の行動が他人に迷惑をかけたり、他人との関係でトラブルが起こったり、それは人が生まれてから死ぬまで起こるのに、それをきちんと学習する場はなかったと感じています。「イライラしない方法」「幸せになる方法」のようなテクニック本が物凄く今売れているということは、こころの問題を解決したいというニーズが非常に高い。でも、小手先のテクニックではなく、ちゃんとこころの仕組みを学習する場は見たことがないし、みんなが簡単に学べる場もない。カウンセリングなどの場で「いろんな人に伝えてほしい」と言われ続けて、それならいっそ教科書を作っちゃえばいいんじゃないかと考えたんです。「私のセミナーに来てください」ってなると、時間も場所も限られちゃうけど、本ならいつでも自分のペースで学習できる。それで幸せな生き方を支援できるなら最高じゃないかと。

「どんな人でも、人間である以上、自分なりに幸せになれる生き方」をする権利があります。そんな単純なことがなぜできないのか、どうなればできるようになるのか、それを研究者向けの専門書ではなく、誰もが普通に理解できるような教科書として世に問うてみようと。内容に突飛なものはありません。「当然だよね」って思うことしか書いていません。しかし、みなさんの常識とはいろいろ異なることがあるかもしれません。すごくびっくりする人もいるかもしれません。自分の固定観念を意識化し、問題点や解決策を意識できるようになると、自然と行動が変わり、それが幸せにつながっていくことに気づかれると思いますよ。

 

―――もしそれができたら、画期的な本になりそうですが、どのようにして見えないこころの仕組みに気づいたのか、教えてください。

 

私は波乱万丈の人生を送ってきました。いいこともしたと思いますが、社会にご迷惑もかけてきました。その中で「良い行動」「悪い行動」って何だろうか、なぜ人は「良い行動」をしたり「悪い行動」をするのだろうか。刑務所までいくような人間は少数かもしれないが、生きてから死ぬまで全く「悪い行動」をしていない人も皆無ではないかと思います。「悪い」と分からずにやってしまうこともあれば、「悪い」と分かっているのにやってしまうこともある。こうした人間の行動に興味をもって調べ始めると、行動は「こころ」の表れであるから、「こころ」が行動に影響を及ぼしているはずだと。それで、「人間のこころ」に興味を持つようになりました。「良い行動」をするときには「こころ」が「良い行動をしろ」と命令しているし、「悪い行動」をするときには「こころ」が「悪い行動をしろ」と命令しているはずだということですね。

 

―――なんで人間は「悪い行動をしろ」なんて命令をするんでしょうか?

 

 そうですよね。普通に考えればみんな「良い行動をしろ」とだけ命令したほうがいいような気がしますよね。わざわざ「悪いことをしろ」と命令するならば、そこになにか意味があるとしか思えない。そこで問題になるのが「良い」「悪い」とは何かということなのです。

 

―――「良い」「悪い」の定義ですか?確かに「良い」「悪い」は抽象的で、具体的に説明するのが難しい気がします。

 

 大変いいご指摘ですね。じゃあ、ものすごく分かりやすい例を挙げましょう。「犯罪者」は「いい人」ですか「悪い人」ですか?

 

―――それは明らかに「悪い人」だと思います。

 

 なるほど。本当にそう思いますか?

 

―――さすがに、それは間違いなく「悪」だと思いますが・・・。

 

 近年、中国では共産党に反対する意見を述べる人、民主化を訴える人を中国の法律に基づいて逮捕しています。彼らは犯罪者ですから「悪」ですね?

 

―――いや、それは悪ではないです。言論の自由を認めない、国家に問題があると思います。

 

 ということは、あなたは中国の犯罪者を「悪い人」だと思わないということですね?

 

―――・・・そういうことになりますね。

 

 法律というものが絶対的に良いものならば法律に従うのが「良い」、法律に逆らうのは「悪い」ということになります。しかし、法律は、国によって異なり、時代によって異なり、さらにいえば、憲法の規定の中に「憲法改正」という項目があるくらい、憲法そのものが憲法を「絶対的に良いもの」と考えていないこととは明らかです。「良い」「悪い」は場所や時によって変化するものととらえたほうがよさそうです。

 

―――そうなると、世の中に絶対的に「良い」「悪い」なんてものは存在しないということなのでしょうか?

 

 先ほどの会話を振り返ってみましょう。中国の憲法に違反しているのに「それは悪ではない」とあなたは答えましたね。つまり、少なくとも、あなたの中に「良い」「悪い」の基準は存在しているということになりませんか?

 

―――あっ、確かにそうですね!自分でも知らないうちに、自分の中に「良い」「悪い」の判断基準があるということですね?

 

 おそらく、あなたは日本で生活して、「言論の自由」は当たり前だという「判断基準」が身についているんでしょう。そして中国に法律の正しさよりも、「自分が思う正しさ」を優先させたのです。

 

―――無意識のうちに自分だけの「正しさ」を作っていたということですね。

 

 さらに踏み込んでみましょう。あなたは「言論の自由」を正しいと思っている。そうであれば、誰かにどんな悪口を言われても、誹謗中傷を広められても、「言論の自由」だから認められるべきだと思いますか?

 

―――いや、さすがにそれは怒ります。許されない行為ですよね!!

 

 ということは、あなたの無意識の判断基準は「言論の自由は一定程度あるが、ものによっては許されない」という基準になっているということが分かってきます。

 

―――その通りだと思いますが、指摘されるまで全く気にしたこともありませんでした。でも、私の考え方って普通だと思うんですけど・・・。

 

 それが常識でも普通でもないから、中国では罰せられて犯罪者になるんです。

 

―――中国ではそうかもしれませんが、日本では普通だと思いますよ。

 

 そのあたりが、私がこの本を書いた理由の1つになります。例えば、コロナが発生してから政府はGo to トラベルを推進して移動を奨励しています。一方で知事は移動の自粛を求めています。日本国民が、経済を優先して外に出るべきか、自粛すべきか、同じ日本人でありながら、真逆の主張をする人がたくさんいます。あなたにとって、どちらが良いことなのでしょうか?日本人の普通とはどっちなのでしょうか?

 

―――・・・。

 

 世の中に「普通」というものは実在しないんです。あるのは「一人一人に異なる自分だけの判断基準」があるだけです。経済優先と主張する人々にとっての「普通」「常識」「当たり前」は経済を優先することなのです。自粛を主張する人々にとっての「普通」は自粛することなんです。もっと細分化すると、「時間を短縮すればいい」「換気すればいい」「4人以下ならいい」「1人旅ならいい」・・・と経済優先の中でも1人1人全く同じ意見ではない。

私がこの本を通して主張したい重要なポイントの1つがここにあります。詳細はあとで説明しますが、「人はみんな違う判断基準をもっている」ということだけ認識しておいてください。

 

―――分かりました。整理すると、人がなぜ「悪い」ことをするのかというと、「悪い」という定義が人によって異なり、ある人によっての「悪い」は別な人にとっては「悪くない」ということが起こりえるからだということでよろしいでしょうか?

 

 最初の疑問に戻りますが、人間は誰も「悪い」ことはしないんです。むしろ自分にとって一番「良い」選択をして行動しています。例えば、ルールに違反していて「悪い」と頭でわかっていたとしても、こころでは「ルールを破るほうが良い」と思っているからやるんです。「良い」は「自分にとって得」と考えてもらって結構です。「破らないより破るほうがいい」と考えるから破る。人は、自分にとって本当に損だと思うことはしないんです。詳しくは本編で触れます。

 

―――そのあたりの話はまた後で詳しく聞かせてください。では、タイトルに「新こころの教育」と名付けたのには特別な意味があるのでしょうか?

 

 日本では性教育があるにも関わらず、深入りを避けるために教育としての効果が非常に低い。それでも教育は行われています。しかし、「幸せになるためのこころの教育」は一切行われていません。一応「道徳教育」というものが長く存在していて、それを「こころの教育」だとすると、「新こころの教育」はそれにとって代わるものという意味合いがありますね。

 私は教員経験を経て、現在は会社の社長と社団法人の代表理事、2社の顧問などをしています。ソーシャルビジネスの種をまく海外のプロジェクトにも携わっています。最近は、カウンセリング、コーチング、コンサルタントを通じた人材育成、人材活用、教育を本業としています。大雑把にいうと、カウンセリングは「相手の話を聞くことで本人に気づきを与える」、コーチングは「相手に質問をして本人が無意識に望んでいることを引き出す」、コンサルタントは「相手に合った答えを提供する」といった違いがありますが、実際の現場では相手のニーズによって内容が重なることもあります。その中で、私は学生、社会人、母親、経営者、シングルマザー、外国人、さらには児童養護施設を出所した人や少年院や刑務所を出所した人などさまざまな人の相談を受けています。人間は生まれてから死ぬまでの間ずっと、「自分の生き方」と「他者との関係性」に悩み続けます。悩みの結果、自傷したり自殺したり、あるいは傷害や殺人に発展することさえ少なくありません。しかし、多種多様な悩みの相談に乗っていると、ケースはさまざまでも、「問題の本質」は同じだとはっきりと悟りました。2020年度の世界幸福度ランキングを見ると、日本は156か国中62位だったそうです。先進国の国民としては非常に低いと問題視されていますよね。他の国については分かりませんが、少なくとも日本人が幸せを感じられない理由ははっきりしています。幸せになる教育を受けていないからです。

 

―――幸せになる教育ですか・・・。そういう教育は受けた記憶がないです。

 

 日本には「道徳教育」というものが伝統的に行われています。私も道徳の授業を受けましたし、あなたも受けたと思います。道徳の授業にどのような印象をもっていますか?本音で議論した記憶はありますか?

 

―――学校の授業なので、本音というよりは、みんな良さそうなことをいってまとめていたような気がします。

 

 道徳の授業の目的って何だかわかりますか?

 

―――・・・。

 

 実は文科省のHPに「徳育の意義・普遍性」というページがあります。ここに次のように書かれています。

 

徳育の目的

社会(その国、その時代)が理想とする人間像を目指して行われる人格形成」の営み・・・

 

―――えっ!!!社会の求める人になれってことですか!?国の都合のいい人間になれってことじゃないですか?

 

 文字通り解釈すれば、日本は民主主義ですから、中国のような制度に変えたいと思えば、憲法改正などして制度を自由に変えることは可能です。今の日本は「言論の自由を良しとする」国民を育てている。まさに今のあなたのような人ですね。しかし、中国のように制度を変えたら「言論の自由を許さない」国民に育てる・・・ということになります。教育の怖いところは経験ではなく観念であるというところにあります。韓国は反日教育を行っていますが、いまの韓国人は日本人になにもされていない。でも、教育で「反日が正しい」と教え込まれると、訂正するのが非常に困難なのです。いまのあなたに「言論の自由はだめだよ」と教え込もうとするのと同じです。

教育基本法の第2条2項に「個人の価値を尊重して、その能力を伸ばし、創造性を培い、自主及び自律の精神を養うとともに・・・」といった規定があり、現場の道徳の授業でもこれが反映されています。先生方は1時間のために膨大な教材研究をして素晴らしい授業を展開しています。しかし、徳育の目的が「今の日本にとっての理想の人になるように」という縛りがありますから、授業の中で「今の日本がおかしい」という生徒を育成するような結論でまとめるのはうまくないということになります。結果、深入りを避けるようになります。

 

―――一方で国の理想の国民になれ、一方で個を尊重し、創造性を培うって、なんか中途半端な感じがしますね。

 

 ちょっと、今の話をフローチャートでまとめると

 

「日本国」→「理想の国民」→「国民を理想の国民に近づける教育」

 

 となりますね。上がシステムを作り、下はそれに合うように教育する。

これは実は、国だけでなく職場でも家庭でも起きている問題も構造が同じなんです。

 

「家庭」→「理想の子供」→「子供を理想の子供に近づける教育」

「会社」→「理想の従業員」→「理想の従業員に近づける教育」

 

―――たしかに!これをすごく分かります!!

 

 これは、上下関係というのがしっかりした、安定した社会においてはうまく機能したんです。家庭も会社も変化を求めていません。家なら家父長制、会社なら上司部下の関係性が絶対です。こうした環境で、例えば母親が父親に罵倒されたとします。母親にとっての幸せになるための選択とは何でしょうか?逆らうことでしょうか?従うことでしょうか?

 

―――逆らったら何されるかわからないので、従うしかないですよね・・・

 

 士農工商や家父長制といった絶対的な制度のもとでは、その制度を否定することは非常に難しいんですね。変わらないものは仕方がないと受け入れるしかない。そうすると、母親は父親のいうことには絶対服従しているのが一番幸せだと考えるようになります。学校でも怖くて逆らえない先生の前では表向き絶対服従で、陰で悪口をいいまくるとかありますよね。

 

―――あります、あります。先生のこと大嫌いなのに、先生の前ではいい子でいたり・・・

 

 それでも我慢の限界が来ると、一揆や、校内暴力といった形で反乱することもあります。これを鎮圧しないと今の制度は保てなくなりますから、こうした反乱には全力で鎮圧しようとします。鎮圧されてしまうと、逆らうとやっぱり不幸せになると実感し、従うのが幸せだという判断基準が作られるようになるのです。鎮圧に失敗すると学級崩壊になります。政府で言えば無政府状態です。

 

―――なるほど、校内暴力もそう考えると起こるべくして起こっているともいえるのですね。我慢を押し付けられて反抗しないのも不自然といえば不自然ですよね。

 

今の時代、「我慢」を教育の中心に据えるべきではありません。教育が「自分の幸せのため」にあると思えばどれだけ大変な努力も我慢ではなくなります。そういう世界を目指すことは重要だと思います。

 

―――いままでのやり方が通用しなくなっているのは、先生も親も上司も肌で感じていると思います。にもかかわらず、なぜトラブルが続くのでしょうか?

 

 残念ながら、現在の先生も親も会社の上司も、多くが上下関係を前提とした教育を受けて育っています。そして、そのやり方が現在の生徒や子供や新入社員にも通用するだろうと思って、自分が受けた教育方法を踏襲して、一生懸命に教育した結果、逆に、人間関係のトラブルを引き起こし、結果、パワハラと糾弾されてしまう。これはある意味仕方がなくて、教師も親も上司も上下関係を前提にしない教育の仕方を経験したことがないわけです。そんな教育方法を学ぶ機会もないのです。上下関係を利用すれば子供や部下をそれなりにコントロールできますが、上下関係を取り上げてフラットな関係にしてしまうと、教育ができなくなってしまうのです。横の関係の教育法という技術を学ばないと、いくらダメだといわれても、パワハラのような教育を行うしかないわけです。

 

―――うわぁー、ものすごく分かります。確かに同じ構図といえますね。ではどうしたら横の教育に変えていくことができるのでしょうか?

 

 今私は形式的には生徒のような大学生がたくさんいます。しかし、私は先生ではあるものの、対等だと考えています。私が彼らから学ぶことも非常に多い。上になる必要がないのです。自分が相手に敬意をしめすと、たいていは相手も敬意をもってくれます。彼らは思ったことを何でも発言できます。何をいっても安全だからです。みんなが「自分の幸せ」について一生懸命考えるのです。「国にとって、会社にとって、先生にとって、親にとっての便利なコマになりなさい」という教育で幸せになる教育は実践できません。幸せなのは国であり、会社であり、先生であり、親だけです。教育されているほうは我慢、我慢です。そうではなくて、全ての人が、「自分だけの幸せ」を追求する教育が必要だと思っています。教育は「正しさを押し付ける」のではなく「生徒が幸せになるための補助者」であるべきでしょう。

 

 

―――なるほど、その考え方は私も賛成です。ただ「自分だけの幸せ」を追求すると、自分勝手な人ばかりになって、社会がおかしくなってしまいませんか?

 

 私が思うに、そうはなりません。マズローの欲求5段階説というのを聞いたことがありますか?

 

―――有名なピラミッド型のものですよね。下から順番に「生理的欲求」「安全の欲求」「社会的欲求」「承認欲求」「自己実現の欲求」と5段階あって、下の欲求が満たされると次の段階の欲求が発生する。自己実現の欲求を満たすことがゴールになるという説だったと思います。

 

 実際には、マズローは後年6段階目の欲求を付け加えていて、それが「超越的な自己実現の欲求」というものです。分かりやすく言うと「他者貢献」のようなものと考えてください。マズローは1~5段階までは自分の欲求で、自分の欲求が全て満たされると、自分の欲求を超えて、他人の幸せのために行動したくなると認識したようです。

 

―――他人のためとか弱者のためとか素敵ですよね。

 

 私はマズローはまだ6段階目の欲求についてはちゃんと理解していなかったのかなと思っています。マズローは5段階目までしか自分の欲求ではないと考え、6段階目は他人の欲求をみたすためと考えたようですが、そもそも人間は「他人の幸せのため」に行動するようには設計されていないんです。「他人のため」に自分が何かをしているという考え方は非常に危険な考え方でもあります。

 

 ノブレス・オブリージェはフランス流の6段階目の形なのかなと思います。法律ではありません。自発的に、富裕層、有名人、権力者、高学歴者が「社会の模範になるようにふるまおう」という倫理観で、5段階目を成し遂げた人がさらに「幸せになる道」として到達する理想の形でしょう。しかし、ここにも落とし穴があって「自発的に」この喜びに到達した場合に幸福度はあがりますが、他者から押し付けられて我慢して行っている場合には6段階目に到達したとはいえません。「自分の幸せのため」ではなく「弱者のためにやってやってる」という思いで形式だけ社会の模範のような行動をしても、自分を苦しめ不幸にします。

 

―――親が自分を犠牲にして子供を守るということがよくあると思いますが、これは親が「自分の幸せのため」より「子供の幸せ」を優先した行動したといえるのではないでしょうか?

 そもそも子供の幸せを考えるなら、子供のために親が死んだりしたら本当にうれしいのでしょうか?「子供の幸せ」は親には理解できません。子供にしかわかりません。「親としてこういう親でありたい」という自分の満足のために犠牲になるというほうがしっくりくるのではないでしょうか?

 親は「子供の幸せのために自分が不幸せでもいい」と考えているわけではありません。そうではなくて、「子供を守ることが自分の幸せだ」と感じている親が多いというだけなのです。すべての親が子供のために自分を犠牲にしたりはしません。平気で子供を虐待する親もいるわけです。親の中に「子供を守ることが自分の幸せだ」と感じたとき、親は「自分の幸せのため」に子供の犠牲になります。「自分は不幸せだけど、子供のために我慢する」というレベルの親は子供のために犠牲にはなれない可能性が高いと思います。「自分が不幸せになるから、子供のために我慢しない」という親もいて、そういう親に虐待の発想がでてくると考えるほうが自然だと思います。

 

―――子供を守るのが自分の幸せにならないと思っている人は自分の子供でも守らないし、虐待することもある。子供を守ることが自分の幸せだと感じられた人だけが、自分のために子供を守るということですね。自己犠牲が自分の幸せだと思えない人は、子供を守れないと。

 

 その通りです。子供を産むべきかどうかも同じですね。親としては「自分の幸せ」のための存在として「子供」がいるのです。「自分の幸せ」のためでない「子供」はいらないと感じると考えるといろいろ理解できることがありませんか?

現在も「経済的に苦しくなる」と思えば子供を作らないという判断をする親が少なくないでしょう。子供ができたら幸せだと思うから子供を作るのです。作った後に不幸せになると思ったら、堕胎させたり、捨ててしまったりします。道徳的には問題はあるかもしれませんが人間のこころの働きとしては、そのほうがむしろ普通だと思います。

話のついでに触れておきますが、「自分の幸せのため」ではなく「相手の幸せのために」と信じて社会貢献・他者貢献をしている人は、結果として自分も相手も不幸にすることがあるんです。「自分の幸せのために」他者貢献を行うことが幸せへの道だというのは非常に重要なポイントです。こちらは他者貢献のところで詳しく説明したいと思います。

 

―――そうはいっても、昔と違って今の日本は時代の変わり目にいるといえるのではないでしょうか?社会は多様性を求め、個性を重視し、さまざまな価値観を受け入れるような雰囲気ができてきていますよね?

 

 そうですね。先ほど安定した環境ではと言いましたが、現在の日本は国も会社も家族も従来のままではうまくいかなくなり、変革が必要なタイミングになっています。国が変化すれば「国の理想」も変化します。しかも非常に短いスパンで変化します。すると「国の理想の国民像」もそれに合わせて変化する。教育内容もどんどん変化しなければならなくなりますが、教育が定着するのに30年はかかるといわれています。結果、ゆとり教育も大学入試対策も結果をまたずに変更を繰り返し迫られ、結果として子供たちが振り回される結果になります。国も会社も家族も新しい時代の安定した価値観が求められているといえるでしょう。

 

―――安定した価値観に関して、詳しく説明していただいてもよろしいでしょうか?

 

 私は人間関係を3つの段階に分類しています。「みんな同じで みんな仲間」という人間関係1.0の世界。同じ仲間でいるためには「個性を尊重せずに、同じになる」ことが必要不可欠だという発想に基づいています。現在も年配の人はこういう考えの人が多いです。学生が「同じTシャツを着ているのは仲間のしるし」のような発想はこの人間関係1.0の発想に基づいています。

 

―――私も基本的に人間関係1.0の発想をしている気がします。共通性がない人や価値観が違う人は仲間という感じはしないです。

 

 日本人には特にこの傾向は強いと思います。LGBTQに関して最近話題になっていますが、こうした人たちは大昔からいたわけです。しかし、男性は女性、女性は男性以外を恋愛対象にするのはおかしいという風潮が非常に強かったため、当時の人は声が出せる状況ではなかった。キリスト教徒を迫害していた歴史など、いまの日本から考えたら考えられないことですが、当時は自分がキリスト教徒であると宣言することは死を意味することだったわけです。

 

―――そういう意味では最近は「自分らしく」という風潮で人間関係1.0は変化してきている気がします。

 

 そうですね、現在の日本は人間関係1.0という多数派に人間関係2.0(「みんな違って みんなバラバラ」)という少数派が混在しているという状況ではないでしょうか。少数とは言いましたが、風潮としては「違いを認めなければならないのはわかっているが・・・」というところではないでしょうか?

 

―――人間関係2.0の「みんなバラバラ」はどんな風に理解したらよいのでしょうか?

 

 他者に対する意識が欠けているということですね。「私はこうしたい。だからこうする。周りがなんといおうが関係ない。嫌われても、敵がたくさん増えても関係ない」といった思考です。

 

―――たしかに、人間関係1.0の人から見ると人間関係2.0の人は「自分勝手な人」と受け止められやすいかもしれませんね。

 

 そこで先ほどの答えになるのですが、私はこれからのこころの教育は「みんな違って みんな仲間」を志向するものであるべきだろうと思っています。

 

―――確かに、「違いを認めたうえで、仲間になろう」というのは素晴らしいと思います。しかし、直感的に「理想論でしかない」「現実には無理じゃないかな」と思ってしまいます。それと「みんな違って みんな仲間」という精神を世界中の人に押し付けるのは多様性を認めようとする発想から反するようにも感じます。

 

 実は「みんな違って みんな仲間」は素敵な表現で気に入っているのですが、私の意図している意味で伝わることは少なく、その点は問題だと思っています。でも、これは理想論でも何でもないんです。なんなら今すぐでもあなた一人でも実現できることなんです。

 

―――私一人が変わるだけで「みんな違って みんな仲間」が実現できるんですか!?

 

 これを理解するにはいくつかの思いこみを修正する必要があります。まず「仲間」とは何かということです。あなたは「仲間」というのをどういう意味で使っていますか?

 

―――私の場合は、「同じ趣味」「同じ価値観」「同じ学校」とかなにか共通性があって、一緒にいて楽しいし、困ったときに支えあったり、一緒になにかを協力したり・・・そんなイメージです。

 

 多くの人は、人間関係1.0の住人なので「仲間=同じ」を求めます。しかし、人間関係3.0では「仲間=違い」ですから、いまおっしゃったような内容は全く当てはまらないことになります。仲間の反対は「敵」ですよね。人間関係3.0では「他人を敵視しない」だけで「仲間」と言えます。いつもべったりしていなくても、会ったことがない人でも「仲間」になりうるのです。

 

―――「敵視しなければ仲間」というのは斬新な発想です!ちょっと、まだ理解がついていっていません。

 

 多くの人にとって仲間というのは「同じ」である必要があり「見返り」を要求します。困っているときに助けてくれない人は仲間ではない。誕生日にメッセージくれなかった人は仲間ではない。といったようなイメージですね。本編でも詳しく触れますが、他者に見返りを求めるのは「自分ならそうするから」「相手も自分と同じ考えであるはずだから」という前提条件の上で成立しています。しかし、「みんな違う」という状況下で「他人がなにをするのか」「なぜそうするのか」というのはコントロールできません。それより、相手が自分に嫌っていても「自分が相手を敵視しない」ということで相手に対して「私はあなたを仲間としてみなしていますよ」というメッセージになります。もちろん、それですぐに相手も自分を仲間として認めてくれるわけではありません。しかし、人間は「自分が嫌だ」と感じる相手を敵とみなし、「自分が安心だ」と感じる人には敵視しなくなります。悪口に悪口で返せばお互いがお互いを敵とみなし険悪な関係になります。しかし、相手に悪口を言われても、自分が「敵」とみなさない技術が身につくと、相手もだんだん自分を敵としてみなさなくなっていく可能性が高まります。結果として、相手から見ても自分が仲間として受け入れられる可能性が上がるのです。

 

―――なるほど、「敵視しないことで誰でも自分は味方と認識することができる。そして、敵視しないことで相手からの敵意を軽減し、仲間として認識されることも可能だ」ということですね。理屈ではわかりますが、現実的に「悪口を言ってくる相手に敵意をもたない」というのはできそうにありません。絶対敵視しちゃいます!

 

 他人に優しく対応するというのは「他者貢献」に通じるものがあります。他者貢献は「自分の生き方に自信がある」「自分のこころが安定している」という状況を作ってから行わないと自分が苦しくなります。順番としては、まず「自分が幸せに生きるための軸を作り、自分の生き方に自信が持てるようにする」ことが最初です。次に「他人を敵視しない」ということがさらなる自分の幸せを生み出します。最後に「他人に貢献する」ということで自分の幸せがさらに増すことになるのです。これは「みんながそうしなければならない」ということではありません。「幸せへの道」というのはこのように実現できるという教育の話であって、こうした話を聞いたうえで、自分がどう生きるかは自分が決定するのです。マズローの説にも一理あって、人間の幸せは成長と共に変化していきます。いきなり最初から他者貢献にいきつくのは困難ですし、自分の生き方に自信が持てないのに他者貢献ばかりしていると、自分のほうが参ってしまいます。人間は日々変化しています。考え方も変化します。死ぬまでずっと変化し続けています。ですから、そのときそのときの「自分の幸せ」を考え、そこに向かって進んでいくのがあなたの幸せへの道となるのです。

 

―――なにか、すごく明るい未来が切り開けそうな予感がしています。それでは、第一章に進んでいきたいと思います。幸せに向かう最初の段階である「自分が幸せになるための軸」をどう作っていったらいいのか次の章で詳しく教えてください。

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